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文化財あれこれ事情
名の知られた「名勝」にこだわらず、自分の判断で「勝地」を目利きする京都の「美意識」。それを生み出したものは・・・
Vol.6 文化遺産と風景2 ―京都の美意識の形成―
平安京造営時、船岡山を基点とし、玄武(げんぶ:船岡山)、清龍(せいりゅう:鴨川)、百虎(びゃっこ:山陽道)、朱雀(すじゃく:巨椋池)という四神相応(ししんそうおう)の風水(ふうすい)の地形が意識され、東の吉田山と西の双ケ丘の間に都が立地した。王城を鎮護するため四方の勝地に法華経を納めた磐座(いわざ:岩倉ともいう。)があった。『日本紀略』によると「この国は山河襟帯(さんがきんたい)にして、自然に城をなす。その形勝にちなみて、新号を制すべし。よろしく山背国を改めて、山城国(やましろこく)となすべし。」とあり、行幸の際の眺望への配慮がなされ、名勝にサクラやカエデが移植されるなど、美しく維持管理され、風景が楽しまれてきた。貴族の住宅として寝殿造の様式が誕生し南方には池を掘り島を造り橋を架けて回遊式の庭園を設けた。「みわたせば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」と詠まれ、と天然の美と人工の美の双方を重視する平安朝の文化が形成された。
鎌倉時代から室町時代にかけては、禅宗の広まりと武家風の書院造の発達に伴って、庭づくりの技術が向上し、室町中期以降には、草木や水を使わず、水を表現する白い砂と山や滝に見立てる岩の配置によって自然の姿を表現する枯山水の手法が広がった。
豊臣秀吉は京都に居を移し、北野天満宮とその付近一帯の松原で、大規模な茶会を開き、全国から身分に関係なく多くの人が集まった。茶席が道の両側に1500も並ぶほどの盛大さであった。千利休が基礎を作ったわび茶は、大名たちの支持を得て、広く流行し、茶道が成立した。この茶道の確立は、建築・庭園・陶芸などさまざまなジャンルで、新しい美術を生み出す契機となり、「新しい美意識が成立」したと言われている。
写真:わびの極致といわれる国宝 妙喜庵「待庵」
阪急電車大山崎駅近くにある大山崎町歴史資料館では、待庵の実物大復元作品を常設展示。
(大山崎町HPより)
利休の茶の湯は「名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、その代りとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。このような利休道具は決して高価なものではなかった」といわれ、さらに「露地は、それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを『一期一会』の充実した時間とする『総合芸術』として完成された」と言われている。京都では、華美な演出を好まず、それを成り上がり的なものと見做したり、名の知られた「名勝」にこだわらず自分の判断で「勝地」を目利きするということがあるが、このような美意識は、茶の湯の文化に育まれてきたということができる。
福島 信夫(ふくしま・のぶお)
工学博士、技術士(建設部門)、一級土木施工管理技士、測量士
立命館大学大学院理工学研究科客員研究員(歴史都市防災研究所アドバイザー)ほか
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