前の(1)で述べたように「文化」には多様な要素が夥しく含まれるが、それらの要素の主要な部分を概ね共有する集団のまとまりが「文明」である。「文明」は政治的単位である国家とも人種的親近性に基づく民族とも一致はせず、通常これらを複数含んでいる。例えばヨーロッパ、北米などの諸国は仔細に見ればそれぞれ独自な文化要素を持つが、何れの国も基本的にはキリスト教をベースにした多くのの文化要素を共有している。これらの国が属する文明は通常「西洋文明」と呼ばれる。世界に幾つの文明があるのかについては諸説あるが、サミュエル・ハンティントンは著書「文明の衝突」の中で歴史上に存在した主要文明は12以上あり、そのうち7つは滅びているので、現存する文明の数は多く見積もって7または8としている。日本文明はそのうちの1に数えられるが、日本人という1民族が日本1国のみで形成する独立の文明とされている。
いずれの文明も他の文明と全く無交流で孤立していた訳ではない。むしろ文明が存続・発展するためには、戦争という形態を含め様々な形での交易や相互交流によって、他の文明の有益な側面も積極的に吸収する必要があったであろう。日本は古代より、漢字やインド発祥の仏教など多くの文物を中国から受け入れており、また明治維新後は西欧文明から大きな影響を受けている。それにも関わらず、日本文明が中華文明を始めとする世界の他の文明とは明確に異なる文明と見なされる理由はどこにあるのだろうか。幕末・明治の時期には日本に来た多くの西洋人は、日本が中国や他のアジア諸国とは全く異なる国であることを認識していた。これには江戸時代の鎖国が独自の文化の醸成に大きく寄与をしたという説も多い。しかし実は、江戸以前の安土・桃山時代に来たポルトガル人などの外人も同様の感想を残している。日本の文化には、何か本質的なところで他の文明とは異なる独自のものがあったのである。 ‘日本は外国文化を選択的に取り入れ、独自の伝統は確り維持した’とはよく言われることである。しかし果たして、そのような意思が日本全体に普く行きわたっていたなどということがあったろうか?恐らくは、島国と云う日本の地勢の特徴が諸外国との接触を限定的なものにし、また影響を受けた日本人の階層が、漢文や英語などの外国語が理解できた、少数の知識人に限られていたためであろう。殆どの日本人にとっては日本の自然、風土、社会に効果的に適応するために培われた経験の方が日本の国土に生活してゆく上で重要であったことが独自の文化を育てた主因と思われる。現代の日本の経済は貿易依存度は小さく内需主体であるが、これに似て日本は文化的にも昔から内需の占める割合が大きい国なのである。
日本の文化財保護法第2条には「文化財」の種類として1.(有形文化財)、2.(無形文化財)、3.(民族文化財)、4.(文化的景観)、6.(伝統的建造物群)の分類がなされている。「文化」の内容は多岐にわたるので「文化財」にも、有形、無形含めて、色々なものがあるのは当然としても、4.(記念物)に含まれる峡谷・海浜・山岳、動物、植物も「文化財」とすることには幾分首を傾げざるを得ない。これは明治初期から別個に制定されて来た古器旧物保存法(1871)、古社寺保存法(1897)、史蹟名勝天然記念物保存法(1919)、国宝保存法(1929)、重要美術品等ノ保存ニ関スル法律(1931)を、戦後に文化財保護法(1950)に一括統合し、その後も新たな対象の追加を重ねてきたことに多少の無理が生じたものと思われる。この意味では、ユネスコの世界遺産のように文化遺産、自然遺産、複合遺産のような分類が合理的なのかも知れない。
ところで、現在一般に言われる「文化財」は「文化」一般を指すのではない。我々の身の周りのものは全て「文化」なのだからそれでは際限がない。「文化財」は、文化財保護法第2条に言うように、歴史上又は芸術上特に価値の高いもの、すなわち「文明」が歴史的に培ってきた「文化」のうちで「文明」の宝とも言うべき特に優れたもののことを言う。ではその価値の高い「文化」をどのようにして評価するかということになると中々に難しい問題であるが、少なくとも「文明」の中で長い年月の間歴史の試練を経て継承されて来た「文化」は、時代に依らない普遍的価値を認められてきたものと言うことが出来よう。現代が生み出す「文化」の中にも非常に優れたものが多く含まれてはいるであろう。しかし、どれが本物の価値を持つかは、相応の時を経てみなければ分からない。
田中 哮義(たなか・たけよし)
京都大学名誉教授
元・京都大学防災研究所
日本火災学会会長
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