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Vol.11 文化遺産と風景3 ―美意識の発展・名所遊覧の楽しみ―

更新日:2013年12月24日

江戸時代には治安が安定し街道が整備され旅もしやすくなった。江戸幕府による統治政策により仏教寺院の本山や末寺が位置づけられ本山への参詣もさかんになった。遠忌、開帳、宝物公開、霊場巡礼、寺社めぐりなど全国から多くの人々が都に遊覧するようになった。京都に住む人々にとっても、寺社参詣、年中行事は行楽を兼ねた楽しみであり、暮らしの一部だった。江戸時代の京都は、観光都市でもあった。森谷尅久は「物見遊山や遊楽というものが庶民のものとなり、日常的な規範から一時的にも逃れて、解放された時間を得るようになったのは、いうまでもなく江戸時代に入ってからのことである。遊山する人々の美意識の問題であるが、小堀遠州が歩いたような巡覧・参詣コースは、一つのセットコースとしてのちに成立することになる。」と述べている。

京都巡りのコースについては、宝永3年(1706)に貝原益軒が著した『京城勝覧』では名所を17日間で廻るコース立てがなされ、同5年刊の『京内まいり』では、3日間コース、さらには正徳5年(1715)刊の『京すゞめ案内者』では、「元三大師順拝18か所」や「洛陽地蔵24か所巡り」のような内容別のコース立てを列挙するようなものまで登場したようである。江戸時代の京都は各種の名所案内記が刊行され、安永9年(1780)刊の「都名所図会」は当時のベストセラーといわれ、その後も拾遺都名所図会(1787)、都林泉名勝図会(1799)、花洛名勝図会(1864)等が刊行されている。

円山応挙
(円山応挙  嵐山での花見と保津峡下りの舟)

このように、京都めぐりの標準の観光旅行コースまで出来あがっていて、広重や松尾芭蕉らの著名人もその行程を楽しんだことをそれぞれの絵画や俳句に表現しており、それがまた、後年の図絵に紹介されるという好循環も生じている。ちなみに、保津川下りは角倉了以が開削して以来、始まった遊びであるが、約400年経った今日でもなお、応挙の絵のままの姿形の木造船で竹竿で船を操りながら下っている。岩には竹竿を突っ込み続けたことによる深い穴まで出来ていると語られるほどである。一度はトロッコ列車に乗って亀岡から保津川下りをするという観光コースを味わってみることをお勧めしたい。美しいところ=ええとこに出かけて遊ぶことは昔から京都人の美意識・生活感覚になっているのであり、それを体験できることにもなる。

福島 信夫(ふくしま・のぶお)
工学博士、技術士(建設部門)、一級土木施工管理技士、測量士
立命館大学大学院理工学研究科客員研究員(歴史都市防災研究所アドバイザー)ほか

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